
最近、AI創作への反応を見ていて、ずっと考えていることがあります。
私はAIが好きです。
でもそれ以上に、「なぜここまで人の感情が動くんだろう」と気になっていました。
この記事は、AIそのものの話というより、「作ること」と「感情」について、ゲーム好きとして感じていることを書いた記事です。
AI創作への拒絶反応を見て感じたこと
海外掲示板やXで見た強い反発
SNSや掲示板を見ていると、AI創作への反応がすごく激しいことがあります。
「AIは創作じゃない」「AIは何も生み出していない」という言葉は、まだわかる。それは意見だから。
でも、AI画像生成を楽しんでいる人のポストに「愚かだ」「くだらない」と書いたり、罵るようなコメントをしている場面を見て、私はちょっと止まってしまいました。
そこまでの言葉が出てくるのは、なぜなんだろう、って。
「AIは創作じゃない」という言葉への違和感
私が違和感を覚えたのは、その言葉そのものより、「なんでそこまで感情が動くんだろう」という部分でした。
本当にくだらないものなら、人はそこまで感情を揺さぶられないと思うんですよね。
怒りや拒絶って、どこかで何かが脅かされているサインだと思っていて。
「自分の仕事を奪われるんじゃないか」「自分の存在価値がなくなるんじゃないか」と感じているのかな、と想像しました。
でも、私はそうは思わない。その話は後で書きます。
でも私は”できない側”だった
PS5だからMODが使えなかった
私はPS5でゲームをしています。
PC版のゲームには「MOD」という、見た目や仕様を改造できる仕組みがあって、それを使ったスクショがSNSに流れてくることがあります。
光の入り方が違う。肌の質感が違う。空気感が、全然違う。
「綺麗だなあ」と思いながら見ていたけれど、そのたびに「でも私はPS5だから無理か」という気持ちが来ていました。MODはPS5では使えないので。
綺麗な世界を作りたくて加工を勉強した
でも、それで諦めたくなかった。
PS5のスクショだと無理だという諦め方が、どうしてもしっくりこなくて。だったら、MODとは違うアプローチで何かできないかを探してみようと思いました。
背景ぼかしを自力でやってみて、玉ボケっぽく仕上げてみて、コントラストを調整して。白くふわふわした方向より、アンティーク寄りのしっかりしたトーンの方が、PS5の素材には合っていた。
MODの画像は綺麗だけど、似ている画像が多い。ならば、MODにはない雰囲気で勝負しようと思ったら、自然とそういうスタイルになっていきました。
「ありがとう」と言われた時に感じたこと
ある日、Xで「PS5だからスクショ加工が綺麗にできない。PC買わないと無理なのかな」という投稿を見かけました。
その人じゃないけれど、後日わざわざ私のXアカウントを探して来てくれた方がいて、「お礼だけ言いたかった」と声をかけてくれたことがありました。
同じように悩んでいた人がいたんだな、と思いました。
そして、できないと思っていたことを一緒に乗り越えられる入口みたいなものを作れたことが、素直に嬉しかったです。
なぜAIだけ強く拒絶されるのか
実は私自身も、新しいものに強い拒絶感を持ったことがあります。
モンハンライズが出た時です。
特に違和感が強かったのが、「ハンターが喋ること」でした。それまでのモンハンって、無口なハンターに自分を投影して遊ぶ感じがあって、それが好きだったんですよね。だから「ハンターが喋るなんてモンハンじゃない」と、当時は本気でそう思っていて、最初は購入しないとまで考えていました。
でも、しばらくしてやっぱり気になって買ってみたら、気づけば何百時間も遊んでいました。ワイワイ会話しながらする狩猟が、すごく楽しくて。今はボイスなしなんて考えられないくらいです。
今思うと、あの時感じていた違和感って、「好きだったものが変わってしまう怖さ」に近かったのかもしれません。
AI創作への反応を見ていると、少しだけその時の感覚を思い出すことがあります。
MOD文化との違和感
ゲーム界隈では、昔からMOD文化について議論されてきました。
見た目を変えたり、光の表現を調整したり、スクショ文化を発展させてきた側面もある一方で、「どこまでが許容されるのか」は今でもグレーな部分があります。
私自身、PS5勢だったこともあって、MODで作られた美しい世界観に憧れていた側でした。だからこそ、AI創作だけが特別強く否定される空気には、少し不思議さも感じています。
もちろん、AIには学習問題など別の論点もあるので、単純比較はできません。ただ、「外部ツールを使った表現」という意味では、ゲーム文化の中でも昔から似た議論は繰り返されてきたんですよね。
だから私は、「AIだけが異質」というより、人が”自分の大切にしてきた価値観が変わる瞬間”に強く反応している部分もあるのかもしれない、と感じています。
人はどこまでを”創作”と呼ぶのか
MODで作られた美しい景色も、カメラマンが撮った写真も、AIで生成した画像も、「作った」という行為ではあります。
何かを使って、何かを表現した。その違いはどこにあるのか。
道具の違い、技術の習得期間の違い、努力量の違い……いろんな軸がありますよね。でも「それが創作かどうか」という線引きは、そんなに簡単じゃない気がしています。
AIに怒っているというより、”価値観”が揺れているのかもしれない
もちろん、AI創作への拒絶反応には、「学習元」の問題を気にしている人もいると思います。
実際、私自身も「どこまでが許容されるんだろう」と考えることはあります。学習されたくない画像はネット上に上げないのが今のところ一番安全かな、というのが私の現実的な結論です。
ただ、それだけでは説明できないほど、AIという存在そのものに強く感情が動いているようにも感じるんですよね。だから私は、これは単なる技術論だけではなく、「創作とは何か」という価値観そのものに触れている話なのかもしれない、と感じています。
本当に興味がないものって、実はそこまで感情が動かないんですよね。
自分が全然遊んだこともないゲームを誰かに批判されても、「そうなんだ」くらいで終わることが多い。でも、自分が大好きだったゲーム、長時間遊んだゲーム、世界観に救われたゲームを否定された時って、ちょっと心がざわついたりする。
それって、その作品を大切に思っていたからだと思うんです。
AI創作への強い拒絶反応も、実は「創作を大切に思っている気持ち」の裏返しなのかもしれない。だからこそ、ここまで強く感情が動くのかな、と感じました。
長い時間をかけて磨いてきた技術が、突然「AIでも同じことができる」と言われたら、それは怖いと思う。でも、本当に怖いのはAIではなくて、「じゃあ、自分にしか作れないものって何なんだろう」と考えさせられてしまうことなのかもしれません。
AIだけでは、結局”薄い作品”になる
情景や感情は人間側にある
最初に書いた、私にAI画像を作ってくれたカメラマンの方の話をもう少しします。
その方はAI画像を生成するとき、元々写真を撮っていた時と同じように、頭の中に情景を浮かべながら言葉にして指示するそうです。
何十枚生成した中の、たった1枚を選ぶ。
それを見て、「情景を持っている人が作ると、全然違う」と感じました。
「作りたい」がないと作品は薄くなる
反対に、顔だけAI生成で他は既存の素材、構図も毎回同じ——というような使い方だと、どうしても薄くなります。
もらった側も、たぶんそこまで喜ばない。
AIは道具なので、使う人間側に「何を表現したいか」「どんな感情を込めたいか」がなければ、出てくるものも薄くなる。
それは人間が作るものでも、まったく同じだと思います。
でも逆に、AIがきっかけで「自分でもやってみたい」と感じる人もいるんですよね。
掲示板で「引きこもっていた時にAIで物語を書いていたけれど、続けるうちに自分でも書いてみたくなって、今は自力で書いてるけど案外できるものだよ」という人を見かけたことがあります。
私自身も、最初はコードなんて全然わからなかった。でもAIと一緒にWordPressを触っているうちに、サイトカスタマイズも自分でできるようになりました。
AIで全部終わる人もいると思う。でも、AIをきっかけに「自分でもちゃんと書いてみたい」「もっと知りたい」と動き出す人もいる。私は、その変化も実際にあると思っています。
本当に強いクリエイターはAIに怯えなくていいのかもしれない
「AIに仕事を奪われる」という話をよく聞くけれど、私はあまりそう思えなくて。
その人にしか作れないものを持っているクリエイターは、AIに怯える必要はないんじゃないかと感じています。
感情や、その人の視点や、その人が見てきた景色——そこはAIには再現できない。
AIは創造性を奪ったのではなく、”入口”を広げた
今思うと、私は「諦めていた」わけではなかったんですよね。
もっと手前でした。
「自分には無理」とすら考えないくらい、最初から選択肢に入っていなかった。無意識下で絵が描ける人、MODを作れる人、コードを書ける人、そういう”特別な人の世界”だと思っていたんです。
私には関係のない世界だと。
だからAIが現れた時、私にとって大きかったのは「AIに相談しながらだったら、自分にもできるかも」という、今まで挑戦すらしなかったことに挑戦してみようという感覚が芽生えたことでした。
入口の前に立つことで、初めてそのドアの存在を認識しました。
できなかったことへの入口になった
私がAIを使い始めたのは、「楽をしたかった」からじゃないです。
ゲームブックを作ってみたかった。でも、私一人でどうやるのか、まったくわからなかった。
WordPressのカスタマイズも、知識ゼロから始めました。ハッカー対応が必要になった時も、ブログのデザインを整えたい時も、AIがいたから「入口に立てた」ことが何度もありました。
諦めるより手前にいた自分が、「試しにやってみようか」に変われた。それがAIと一緒にいる感覚です。
全部「無理かもしれないけど、やってみよう」だった
振り返ると、私がやってきたことって、ずっと同じ動き方だった気がします。
PS5でも綺麗なスクショを撮りたい。
エンジョイ勢でも高難易度に挑戦してみたい。
PC知識ゼロなのにブログを作りたい。
AI創作にも触ってみたい。
「できないから諦める」じゃなくて、「できないなら別のやり方を探す」。
たぶん昔から、ずっとそれでした。AIが出てきてからも根本は変わっていなくて、ただ「できることの幅」が広がった感じなんですよね。
私の友人に、プラモデル作りがめちゃくちゃ上手い人がいます。本当に細かくて綺麗で、「初心者向け講座やったら絶対需要あるのに」って言ったことがありました。
でも本人は、「いやいや、もっと上手いプロいるから無理だよ」って言うんです。でも、それってすごくもったいないなと思って。
もちろんプロはすごい。でも、初心者って、プロの動画を見ると「すご…」で止まっちゃうことが結構あるんですよね。レベルが高すぎて、「自分には無理そう」って入口で帰っちゃう。
だから私は、「できなかった側」を知ってる人にしか作れない入口ってあると思っています。最初につまずいた感覚を知ってる人だからこそ、「ここで困るよね」が分かる。
でも、プロと比較して「自分なんて」と思った瞬間、その可能性ごと消えてしまうことがある。それって、すごく惜しいことだと思うんです。
私は、”できない人の入口”を探している
そういえば、私がFF14を始めたきっかけも、実は似たような理由でした。
当時の私は、MMORPGって「ギミックも難しいし、知らない人と一緒にプレイするのも怖いし、自分には無理そう」と感じていたんです。
でも、「光のお父さん」というブログを見て、60代のお父さんがFF14を楽しんでいる姿を知りました。
それを見た時、「あれ…?もしかしたら私にもできるかもしれない」って、初めて思えたんですよね。
今思うと、あのブログは”入口”を作ってくれていたんだと思います。上級者目線じゃなく、試行錯誤しながら、不器用に楽しんでいる姿が、「FF14って怖い世界じゃないかもしれない」に変えてくれた。
そしてそれが、私がこのブログをやっている理由と、たぶん同じなんですよね。
このブログのテーマは、攻略でも加工でも環境整備でも創作でも、ずっと同じです。
「できないと思っていたことの、入口を探すこと」。
PS5でも綺麗に加工できるかもしれない。 エンジョイ勢でも、工夫したら少し楽しめるかもしれない。 PC初心者でも、ブログは作れるかもしれない。 AIで、作りたかったものの入口に立てるかもしれない。
全部「かもしれない」で始まっています。
「できる」と断言する記事ではなくて、「入口はあるかもしれない」を探す記事を書きたいと思っています。入口に救われた側だったから、入口を作る側でいたい。たぶん、ずっとそういうブログです。
AI時代に残るのは、”その人にしかない感情”なのかもしれない
私はAIが好きです。反対に、嫌いな人がいてもいいと思っています。
ただ一つだけ、「それは違うな」と思っていること。
AI創作を楽しんでいる人に、「愚かだ」「くだらない」とわざわざ言いに来る人がいること。
嫌いでいい。でも、相手が何を言わんとしているかを理解しようとせず、ただ罵ったり、感情だけをぶつけることは、AIよりも人を傷つけていると思います。
AIは人の感情まで再現できない。その通りだと思う。
感情こそ、「AIに欠けているもの」でもあり、「人間が持っているもの」でもある。
でも、感情を持っている人間だからこそ、せめてその感情を、誰かを傷つける方向じゃなく使ってほしいな、と私は思っています。
AIそのものより、人の不安や恐れ、価値観の衝突のほうが、人を傷つけてしまうこともあるのかもしれない。
あなたはAI創作についてどう感じますか?
私はまだ答えが出ていません。でも、だからこそ考え続けています。もし「作りたいのにできない」と感じていることがあれば、この記事が何かの入口になったら嬉しいです。

